昭和49年2月18日 朝の御理解
御神訓一つ「若い者は本心の柱に虫を要らせなよ」と。
★今朝、あ~、御祈念中に頂きましたことは、えぇ昨日の昼頃、歌舞伎座中継のお芝居があってました、その丁度半ば頃、ちょっと見せて頂いたんですけども、丁度あの、中村、あぁ、勘九郎ですかね、勘九郎の、おぉ、踊りが、あっとりました、えぇ、お父さん勘三郎というまあ名優です、勘九郎の、を、本当にまあこういう人がまあ名人になるのだろうと思うくらいに、まだ高校出たばっかりでしょうか、まだ十代ですけれども、おぉその、おぉ、軽快な踊りでしたが、もう実に踊りぬけました、というのは、丁度あの化け物ばかりが沢山でるお芝居だった、初めて見たんですけれども、その勘九郎へ演ずるところのその、傘の化け物です、雨傘の、ですからあれは、この一本足ですね、一本足で、踊らんならん、しかも高歯の下駄を、を一本歯の歯を履いてる、そして一本の足はそこにか括り付けてあるでしょうね、一本歯っ、一本で、もうそれこそ、舞台狭うして、踊りにくうお芝居でした、いわゆる、まっ、あの踊りですわね、ね、どうして昨日あんなお芝居見とったけんで、こんな御心眼頂くとじゃろうかと思うて、おりました、ね、そしたら今朝頂きます御神っあの、御理解が、御神訓「若い者は本心の柱に虫を要らせなよ」という、御理解、まあこれは、若い者に対する、ん~御理解、御教えというのは、え~、こっ、これだけのような感じがいたしますね、教祖様は、小さい子供の、方が親と一緒に参ってまいりますと、あの、若葉が参ったと言うて、大変喜ばれたそうですね、いわゆる、う~、しん、いわゆる青年、若い者の信心を大変喜ばれた、教祖様の御信心を、ひたむけに受けられた、当時の偉い先生方は皆、まあ二十代の若い青年の方ばかり、ね、佐藤満雄先生ね、佐藤宿郎です、なんかも二十幾つで、え~、ああいうその素晴らしい信心を、あの身に付けられた、確かにその、若い時に、若い時に、え~、わがままをさせてはならぬ、してはならぬ、あまり自由であるということは、あ~、もう言うならば本心の柱に虫が付き易い、ね、若い時には出来るだけ、やはり不自由を、積めとするくらいなものがなからなければいけない、ね、それこそ一本足でしかも、高歯の下駄履いて、踊る、もうちょっと油断したら倒れましょう、ね、それこそよろよろもしましょう、何故かって、油断をしないからです、ね、勿論そこまでには、十分な稽古も、したことでございましょうけれども、親父さんがやはり名人なら、子供もまた、名人の、と思われる、辿る道を、やっぱ辿っておる、それに先日、なにか、あ~、テレビでこう一問一答をやっとりました時に、修行するということは、随分辛い事でしょうねとこう言うて、勘九郎に聞いておりましたら、勘九郎が言うことがですね、「もうしるしいなんかって、感じたことはありません」っち言うて、「もう楽しゅうして楽しゅうして応えん」っち言ってました、ね、どうしてそういう子が出来るかと、ね、親父さんであるところの、勘九郎自身が、もう芸能師と言われるくらいにもう、他のことはない、此方に一心になるから、子供もちゃんと見習うのです、ね、修行は、苦しいとか、修行が楽しいとかと、もう、大変な違いですがね、「稽古せんか稽古せんか」と、「稽古せにゃ」と言うて、させるのではなくてです、もう自分から進んでしかも、そりゃ激しい修行もするでしょうけれどもです、それが楽しいとこう言っておる、ね、本当に私は子供を甘やかしちゃならんとこういうことを言うけれどもです、ね、親自信が、甘えておってはならんです、まあ私の事を言うて、えぇえぇ、しかし皆さんがご承知の通りですから、申しますならです、ね、なら子供達が贅沢をしようと思うなら、自由をしようと思うなら、どんなにでも自由が出来ます、ぜいっ、まあ贅沢もしようと思えや出けれる、おかげを頂いております、ね、一から十まで素晴らしいということではないですけれども、その子供達が、例えば言わんでも頼まんでも、不自由な、言うならば、事をです、ね、有り難いこととして、それぞれ修行に取り組んでおる事です、ね、先日から学院に行っておりますあの光昭が、無期限断食を、させて頂いておる、あぁもう食べ盛りの、言うなら食い盛りの、を者が、なんなら、しかもお許しを頂くまでは頂かんといったような、不自由な、あぁ、その修行に取り組むかと、ね、私は朝の三時半に、三時十五分に起きますから、それに間に合うように、言うなら直子と幹三郎は、もうこれはもう必ず、もう絶対のものとして、心に決めておるようです、そらぁもうる、もう寝むっ、もう寝むってもう廊下ば眠ってきよるごたる状態の時もあります、私はさっ、四時までここにおりますから、それまでちゃっと前二人で、こうまあ正座しておりますけれども、もうこうやって(?)眠る時もあります、ね、けれども、もうこれだけはいっちょせにゃいかんぞと言うたこともなんもありませんです私は、ね、だからならその他の事がです、そりゃ親の目から見れば目に余るような事もありますけれどもです、自分でそういう窮屈なと言うか、あぁ、自分の言うなら一本歯の下駄で一本足で踊る稽古を、本気でしようとしておるのですから、ね、言うことはないと私は思うです、ね、若い時にうんと鍛うとかにゃん、と言うて親が鍛うのじゃない、それはね、親自身が本気で、信心の稽古をさして頂くことに修行を厭わない、そこに私は、神様はです、ね、子供達のお育ては下さるんだと私は信じます、ね、ならここの修行生の方達の場合だってそうです、もう私は、私の知っておる限りでです、家、家ぐらいに、私ぐらいに、修行生に、「こげんせにゃいかんばい、あげんせにゃいかんばい」って、言うたこっ、言わない、まあ言うなら師匠はおるまいと思います、とにかくまあ師匠の信心を、まあ見て行くことだけなんだ、聞いて行くことだけなんだ、それでいて、そげんな無理な修行せんでもと言うようにです、銘々が、やっぱりそれぞれにしっかり修行しております、ね、結局私は、これは若い者と言うからには、自分ところの若い子供とか、ね、家の青年達がと、言う、あの、どうこうと言うことは、まず親自身がです、ね、言うならば本気で信心が好きになり、本気で信心の稽古に、励むならばです、子供が勘三郎勘九郎じゃないけれども、付いて来んはずはないです、ね、ここの場合だってそれを思います、皆さんがご覧になってから、はぁあげな息子さんが出来なさったと、思いなさるようなとこもありましょう、その、いつも良かとこばっかりじゃないですから、ね、けれども神様を心に向ける、向けようとする、しっ、姿勢とでも申しましょうか、ね、若先生とてもそうです、朝の五時の御祈念だけは、どんなことがあっても自分が受け給う、もうそれこそ、あれはなん、医者にでも見せたら大変なことだったでしょうけれども、お~、あの破傷風ですかね、もう大変な、もうそれこそ、あの痛む時には、もう大の男が、その、泣くぐらいに酷かったんですけれども、朝の御祈念だけはそれこそ這い這いをしながら出てきました、ね、だからそういうものをです、なら子供の上においておるところにです、はっ神様のお育てを頂いておるのですから、ね、それが狂い出したら、私は親自身も、自分の信心の狂いをやっぱ思わなければならない、親自身が改まって行かならければならないと思うです、ね、それはもう、それこそ蝶よ花よで育てて、そして皆で放題な甘やかし放題には、甘やかしといて、そして自我心が付くようになって、わがよっ、わがままを、すると言うて、悔やむ親があります、ね、自分がそれ、もうほん、本心の柱に虫が付かんならんごたる育て方をしとる、ね、ですからね、ここはもう、言うならば、中途半端なことは許されません、信心しよるから子供は良い、良うなるっちいうことはないです、いわゆる徹したもの、なら、なら勘三郎の、あの、を、あ~、芸熱心と言うか、芸の虫と言うか、もうそれに徹しきってるです、それを見たり聞いたりしておる、子供は、やはり、親の跡を、苦しいとかしるしいで付いて来るのじゃなくて、楽しゅう付いて行っておるようで、ね、ここの場合はまだ完全なものとも思いませんけれどもです、私も言うなら信心の虫です、まあ言うなら徳の亡者と言うても良いです、ね、もうそれこそ、これが徳を受けるということなら、それこそ、お~、我が子を犠牲にするようなことは平気で、私はやる男です、ね、それが徳を受けることであるならば、ね、いわゆる金の亡者というのが、金になる事なら、どんな、人殺しでんするっちいう人がおりますようなもんです、ね、だから私はこの辺のところはですね、親の信心というものが、あとっ、ね、そのくらいに、なら信心の虫と言われるくらいにです、ね、徳の亡者と、自分で思うくらいな、信心をさしてもらうならです、ね、私は子供が出来損なうようなことはない、子供が、言うならば本心の柱に、虫を入れるようなことは、ないお繰り合わせが頂けれるよ私は確信いたします。
今朝から、ね、神様は、一つあの、ここで御理解頂いて下さる時にはですね、なら私は神様にお知らせを頂くことと、ならここで神乍らに頂くその御神訓という、御理解という、それをです、ね、その中、そのところからです、皆さんが本当に御神意、御神慮を悟って頂かにゃいかんと思うです、ね、昨日なら勘九郎の一本足の、をぉ、踊り、一本歯の下駄を履いて、ね、それを、例えば見せておって下さったのは、今日の御理解を皆さんに信じてもらいたい、またおかげを受けてもらいたいという御神慮があるからこそだと思うんです、だからこれは一つ本気で、私が頂かにゃいけんなぁということにならにゃいけんのです、親自身が頂かにゃいけんです、ね、そういう例えばところからです、なら、子供は、言うなら信心が、もう、あの、自分で求めて修行でもするぐらいになったらです、もう言うならその木は、若い木が、段々あぁ、堅いことになってまいりますから、ね、若葉の内、若木の内に、虫は付きやすいのです、ね、大きくなったり、年をあの、もう、を、大きくなったら、あぁ虫は付きません、付いてもそれをもう、自分でね、その虫に負けないだけの勢力というものを、その木そのものが、持つように、若葉の時、若い時が、肝心要なことでございます、特に、だからなら、若い青年層の方達がです、ね、本当にいわゆる不自由を、私は常とする、生き方を、身に付けなければいけないと思う、恵まれて、何かに、ね、不自由しないですむようなおかげを頂いておる人はです、なら自ら進んでです、窮屈な修行の一つも、させて頂くような、精進がいります。
今日私は、若い者に本心、若い者は本心の柱に虫を要らせなとこういうことですから、ならお互いは、今日私は若い者の立場じゃなくて、もう年寄りの立場、親の立場、ね、そして、子供が、虫の付かんような、育て方をさせて頂くためには、親自身が、私はその気にならなければ、駄目だということを今日は聞いて頂いたわけです、ね。
夕べの、おぉ、合楽会でしたから、お話の中にも、お話さして頂いたことですことですけれども、ね、自然との人間との調和ということ、これはなんかの、を、なんか商事会社の、テレビのコマーシャルに、こう画面に何時も出てくるんですね、私は金光様の御信心は、この自然と人間との調和をこそ教祖は説かれたんだと思うんです、ね、若い者が段々信心をさせて頂いて、そして信心のなんたるかも段々分からして頂いて、自然の中にいつも神の姿があり、神の声を聞く、ね、自然との言わば、調和、対立ではなくて調和です、の、ね、そこんところの信心の会得が出けたら、私は、もう心配はないと思います、合楽で稽古をなさっておる方は、さほどに難しいことじゃないです、本当に成り行きを大事にしながら、信心の稽古をさして頂いておるとです、ね、いつも、自然が、言うなら、天地の親神様が、ものを言いかけて下さるようにです、ね、道をはっきり示して下さるです、そこまでの信心をです、子供達が受け継いでくれたら、私は親も安心だと思うですね、そのためにはなら親自身が、そこんとこを大事にいよいよして行かなければいけない。
昨日櫻井先生の、発表でしたけれど、ね、先日何か知らんけれども心が重くて重くて心が暗くて暗くてしようがない、御神前にぬかずいて御祈念をさして頂いても、心が晴れない、わっ、まあわけがないことはないだろうけれども、わけもないのに、どうにも心が裁けない、丁度ここで御祈念をしておられる時に、軽い地震があった、ね、そん時に、あの先生が感じられたことは、神様がこう大地をゆりうっ、ゆりうっ、揺り動かしてでも、私に求めておられるもの、まぁだそこが分からんかと言うて、おられるものを、感じたとこう言っておられる、だからもう一遍御祈念をし直そうと思うて、お手洗いにやらして頂いた、なにかそこに落ちとるから、ひろうてみたら、メガネの、ん、メガネ、メガネ拭きが落ちとった、ね、その、メガネ拭きに何とか書いてあったとかな?、コウワ?うんうん、ね、いわゆる心を立て、心に光りをというようなものを、を、まあ自然がそういう風に、もの言いかけて下さった、それを、それと受け止められた、もう嘘のように自分の心が、開けてきたという話をしておられました、ね、だからもうその、自然との調和ということをです、いうことを、私は頂かせて頂くことを、ここでは、なら自然、の働き、成り行きそのものを大事にしていけ、それを大事にするから、自然がまた、あなた方を大事にする、そして人間の事でありますから、どこ、生身を持っておることでございますから、どこにお粗末がご無礼やらあるや分かりませんけれども、そのお粗末ご無礼のところは、せめて一修行さして頂いて、お詫びの印しというような日々を送っていくような、信心生活の中からです、ね、そこに自然が、いわゆる人間氏子と調和しようとする、働きを、それこそ示して下さるわけです、まあこれは言うと大変難しい、ことのようですけれども、ならここで皆さんが体験しておられる、事実を言うたら、それが楽しいのです信心は、ね、間違おうとしよると、神様が、「あぁこらこら」とこう、言うて下さるようなものを、その自分の周辺に感ずる、くらいなところまでです、一つ信心を、を、お互い頂きたい、若い方達でもそうです、本心の柱に虫が付こうとする時にです、ね、だから、あの不自由をするということはもう大変尊いこと、特に若い方達は、不自由をするとこは、もう非常に有り難いこと、その不自由な事によって、信心の稽古をさして頂くということになれば、それこそ、自由だけを求める、そして求めて求めて与えられるかと言うと実際は与えられない。
★昨日私は、それも、を、話したことでしたけれども、ん~、末永先生が、ブラジルふっ、う~、布教のことやらの、雰囲気がある、自分もだからそれを、心に描いて、まあ言うなら、あぁその、大きな夢を、を、まあ心の中に感ずるわけです、その事を私はお願いさしてもらいよりましたら、夢をすっ、「夢を捨てよ」と頂きました、夢は破れやすいです、ね、ですから、もう手元のとこだけを間違いなく一生懸命やって行きゃぁです、それこそ夢にも思わないようなおかげが受けられるのが、金光様の御信心です、はぁもうおかげ頂いてああもこうも、夢を持つ、その夢というものは、言うなら破れやすい、だから夢を持っちゃいけん、問題は自分自身現在の手元のところ、現在の足元だけを見て、間違いのない生き方をさしてもらい、そこに虫が付かずに、心がいよいよ大きく育って行くから、花も沢山咲くでしょう、実も沢山実るでしょうということになるのです、ね、一般では、人間は夢を持てという風に申しますけれども、夢は破れる、ね、金光様の御信心は、そういう夢は捨て、捨てなければならん、そして夢にも思わなかったようなおかげを頂かして頂かにゃならん、それには、若木の時に若葉の時に、それを大事にしなければならなん、いくら親が側に付け付いとってもです、そんなにずっと付けとっ、付け付くわけにんはいかん、ね、そこで神様に委ね、お願いをする他にはない、だから神様に委ねるというその親の心自身がです、ね、いわゆる信心が好きにならなきゃいけん、言うならば、今日、今日の御理解で言うならば、勘三郎が芸の虫と言われるくらいにです、もうそれこそ本当にこの人は芸の虫だと思いますけれども、なら子供もやっぱり、こういうのが、言わば名人達人と言われるような、あぁ役者になろうと思われるくらいな、ものをそこに発揮して現して行っておる、ね、だから、いい加減なこっちゃいかん、信心が本当に好きになるくらいに、好きにならなきゃいけん、ね、だから親自身が本当におかげを頂いて行きゃ、子供は神様が、そういう、うぅ、適当なお繰り合わせを下さる、私は何時も子供の上にそれを思うんです、昨日もでした、栄四郎がここにお届けに来てから、学校に行くという、その、そこに坂本さんと、え~、綾部さんが日田からお参りしておられる、それで学校行こうと言いますから、
※ここからテープの音声が悪くなる
「それでもうあんたちょっと待ってから(?)の車に乗せてもらわんの」と言やぁ、とても楽だと思うんです、ね、わざわざ( ? )、けれども私は決してそれを言わんでおる、ね、だからね、この辺のところを皆さんも体得されますとです、なら私の方の子供達がどう、成長するか、時にどういう(?)が付くか、それは分かりません、もう親が)(?)の信心ですから、けれども、私はその子供達の、姿勢、姿を見てです、自分の信心の姿勢、姿だと思うております、ね、子供が悪いとじゃないです、親自身が悪いとです、ね、を、言うなら今日は、親の目から見た、子供、若い者、言うなら、えぇ、本心の柱に虫を、を、要らせてはならない、子供が可愛いならば、甘えかしてはならない、という、えぇ、立場で、お話をしましたが、まあ若い方は若い方でです、ね、自分達が求めて、不自由を、自分の、ね、(?)にならないということを、その事が、有り難いと分かるくらいな、その事によって、本当の信心の稽古をさして頂くくらいな、それこそ一本歯で一本足でです、(?)よろよろもせずに、踊り回っておる勘九郎のその、踊りの稽古じゃいですけれども、そのくらいな一つおかげを頂いて頂きたいと思うですね。
どうぞ。
入力者:誠輝